かなぶんの火の玉ブログ (๑•̀ㅂ•́)و🔥

にっぽんが大好きだから、毎日生きてて幸せです♡

1月3日 児島高徳公を知っていますか?

後醍醐天皇を最期まで支え、
明治維新の志士達の精神的支柱となった

南北朝時代の英雄、楠木正成は有名ですね。

(と言っても戦後世代はほとんど知らないと思いますが)

 

児島高徳も同じ時代に後醍醐天皇を支えた勤皇の志士です。

戦前は文部省唱歌にもなり、国民に親しまれていました。


楠木正成公さえ教科書に載っていないのだから、児島高徳公はもっと知っている人は少ないでしょう。

 

何年か前に児島高徳の存在を知り
ずっと気になっていて

というのも、


うちの会社は高徳建設(読み方はたかとく。社名を付けた時は児島高徳公の事は知らなかったらしい)

偶然同じ名前✨
児島は地元に近いですし
何かとってもご縁を感じて
家族ともどんな人だったんだろうと話をしていました。

 

それで、こないだの大晦日に買い出しに出かけたら、帰り道を間違えて😅熊野神社に着きました。

年の最後に挨拶して帰りなさいと言われたのだと思って、そのままお参りしました。


神社境内の案内板を見ていたら
その神社に隣接して五流尊瀧院という修験道のお寺がありまして、
なんとその一角に児島高徳の生誕地がありました❗️🙄

 

前にも来たのに、気が付かなかった…❗️


すぐにそこに行き、手を合わせました。

 

熊野神社はうちの氏神様でもないし、
なぜこのタイミングで…?
な〜んか気になっていました。。。

 

そしたら、私の師事する方の初夢に
児島高徳に通じる話が出てきたというのです。。


なんじゃそりゃー‼️🙄

 

しかも兄から、児島高徳が御祭神の神社があると聞いていたのにそれで思い出しました❗️
_| ̄|○


これは行かないわけにはいきません❗️

ごめんなさい‼️

 

早速、初詣に
後醍醐天皇児島高徳公をお祀りする
津山の作楽神社に参拝しました🚗

 

参拝しましたところ…
古いながらも境内にはたくさんの碑があり、
児島高徳公がどんなに地元の誇りであったか、その思いが溢れていました。


そして後醍醐天皇とのエピソードが
人々の胸を鷲掴みにしていたのか
本当によくわかりました。

 

今まで知らなくて申し訳ないやら、
巡り合わせが嬉しいやらで、
今までごめんなさい、と
これからよろしくお願いします。
と、手を合わせてきました🙏

 

道を間違えたのも
誰かの初夢に出たのも
会社の名前が同じなのも
何か不思議なご縁があるように思えてなりません。

 

地方創生の鍵は色々あると思いますが
私の思うその一つは
自分の故郷の英雄、偉人を知ることにあると思います。

 

私も若い頃は、地元岡山を何の特徴も無い
ダサい田舎だと思っていました。


でも、こんなに素敵な先人方が
岡山を作ってきたんだと思うと誇らしくなり、

岡山がもっと素敵に発展してほしいなと思うし、

そのために自分も先人の方々を見習って頑張ろうと思います😊✨

 

だから、きちんと次の世代の人たちに
伝えていきたい。


そういう取り組みをしたいな。
という目標が。

 

後醍醐天皇児島高徳公の大変有名な感動のエピソードを
作楽神社のしおりにちょっと手を加えて書き起こします。

 

*********

 

今を去る六百数十年、
元弘のむかし、人皇(にんのう) 第九十六代 後醍醐天皇
北条高時のために隠岐に流される途中、この院庄館にお宿りになった。

時に、備前の人 児島高徳は、
天皇を賊から奪い勤王の義兵をあげようとして、

船坂山や杉坂峠で一行を待ちかまえたが、

みな失敗に終り、
単身この館に忍びこもうと企てたが、これまた警戒厳重で成功せず、
折から館の門の前に春雨にぬれて美しく咲いていた桜の幹を削り、
「天莫空勾践時非無范蠡(天勾践を空しうするなかれ、時に范蠡なきにしもあらず)」と

十字の詩を書いて立ち去った。


これは、越王勾践(こうせん)が
呉王夫差(ふさ)と戦って敗れ、とらわれの身となっていたのを、
忠臣粒姦(はんれい)らの努力によって呉を破ることができた故事によるもので、
後醍醐天皇を勾践に、高徳自身を粒露にたとえて、


「天は決して帝をお見捨てにはなりません。きっと忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう」

と、帝(みかど)をお慰めしたわけである。

 

翌朝、この詩を見つけた警固の賊兵はその十字の意味がわからず、
ひとり天皇のみ解したもうて、
ここにも忠義な家来がいたかと、末たのもしく思しめされたということである。

 

この故事は「太平記」に記載せられて、長く国民の胸に深い感動を与えてきたのであるが
江戸時代になって、津山藩の家老長尾勝明は、荒廃していた館あとに碑を建立して、

高徳の誠忠を顕彰した。

 

これは、南朝忠臣のモニュメントとしては全国で二ばんめに古く、
湊川の「鳴呼忠臣楠子之墓」よりも四年はやく建てられたものである。

 

その後、幕末になって
ここに神社を造立しようという声がおこり、

国学者道家大門らの建議により、藩主を経て朝廷の許可を受け、

勅号の「作楽神社」という社名が下された。

こうして明治二年に神社創建となったのである。


道家大門は、作事奉行として宮の造営にあたり、また初代の雨官として生涯を神明に奉仕した。

現在の社殿は大正十五年再建のものであり、のち昭和の大修理が行われ、五十四年に竣工した。

約一万坪の境内には文学碑なども多く、地方文化の宝庫、民族精神の拠点となっている。

 

********

 

ちなみに児島高徳のご先祖は
田道間守(タジマモリ)といって
垂仁天皇のために、みかんを大陸から初めて持ち帰ったお菓子の神さまです。


田道間守の先祖はアメノヒボコ
その先祖はもしかしたらスサノオノミコト……

肝心の境内の写真を撮り忘るる…

 

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